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永遠のライバル早稲田と慶應!その創始者福沢諭吉vs大隈重信!

 

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photo by photoAC

 

さて、またもや慶應ネタです。

 

息子が慶應義塾高校に通うようになってから、慶應をことを調べるようになりました。その結果慶應のことを色々と知るようになってきましたが、今回は私が初めて知ったことを書きたいと思います。意外と知ってる人は少ないんじゃないかなと思います(そんなことないか?)。

 

テーマは

 

福沢諭吉と大隈重信はめちゃくちゃ仲良しだった!

 

です。

 

慶應義塾大学は1858年福沢諭吉によって蘭学塾としてスタートしています。

1868年慶應義塾と命名し、1890年から大学部がスタートしています。

 

文科、法科、理財科の3つで始まりますが、それぞれ現在の文学部、法学部、経済学部の基にになった学部です。

 

 

早稲田大学は1882年に大隈重信によって東京専門学校としてスタートし、1902年に早稲田大学と改称し現在に至っています。スタートは慶應のほうが24年早いですが、大学としてのスタートは早稲田のほうが8年早いです。

 

年齢は、福沢諭吉は1835年生まれ、大隈重信は1838年生まれなので、福沢諭吉が3歳年上ということになります。

 

出会ったときは両人とも既に有名人でしたのでお互いのことを知ってはいたようですが、印象としてはお互いに良いイメージを持ってなかったようです。そしてある知識人が集う親睦会(飲み会)があり、両者は初めて相まみえることになります。

 

明治6年のことでした。明治6年は1873年です。

 

直接話してみたところ「日本の未来のために若い人材を育てよう」ということで、あっという間に意気投合してしまいました。二人にとっては運命の飲み会になったのでした。

 

もともと福沢諭吉は無類の酒好きで、若い頃は朝から飲んだくれていました。あるときこれではいけないと思い酒をやめると宣言をしたところ、友人から代わりにタバコを勧められタバコを吸うようになり、その後は結局禁酒にも失敗し、酒どころかタバコもやめられなくなっています。

 

この飲み会を機に二人は一気に急接近、ちょくちょく飲みに行くようになり、ついには「ゆきちゃん」「しげちゃん」と呼び合うようになったとかならないとか。お互いの家には頻繁に行き来していたようです。。

 

その後福沢諭吉の勧めで大隈重信は早稲田大学を創立することになります。

運命の飲み会で意気投合したテーマをいよいよ実現させることになりました。

 

時の権力に左右されない「学問の独立」が大隈重信の考えであり、早稲田大学の三大理念の中心となります。あと2つは「学問の活用」「模範国民の造就」

 

先に開校していた「独立自尊」の慶應義塾と共に、私学両雄の礎が築かれました。慶應の代表的な理念は「独立自尊」の他に「実学」「社中協力」などがあります。

 

1890年に慶應が大学部を設立した時には文科、法科、理財科の3学科を設置しました。福沢諭吉が義塾を始める際、実学を重んずるとして重視したものの一つが経済学であり、慶應の思想の礎を継ぐ学部の一つです。1920年に経済学部という現在の名前に改組されております。以来経済学部は慶應の看板学部です。

 

他には地理、歴史、物理などがあります。

 

ちなみに現在の人気学部は法学部政治学科⇒法学部法律学科⇒経済学部⇒商学部⇒文学部となっており、受験時の難易度も概ねその人気順の通りになっています。

 

「学問のすゝめ」は大ベストセラー

 

実学についてはかの有名な「学問のすゝめ」に詳しく記載されてます。

 

この「学問のすゝめ」、当時日本の全体の人口が3,500万人の時代に340万部を販売したとのこと。約10人に1人が読んだことになります。現在に換算した場合、単純な人口比率からの換算では1,000万部以上に相当してしまいます。

 

大大大ベストセラーです!

 

また慶應の有名な理念の一つとして「社中協力」がありますが、その精神は、後の日本最強の学閥「三田会」に繋がっていくのです。

 

大隈重信は早稲田大学設立の際、福沢諭吉に大いに助けられています。設立に際しては、福沢諭吉は多くの慶応の優秀な人材を早稲田に送り込んでいます。

 

しかし肝心の早稲田大学の開校式に大隈重信は出席できません。出来ないというか敢えて出席しなかったのです。

 

「明治十四年の政変」で伊藤博文と対立し、明治政府の中心から追い出されたことが影響しています。当時改進党総理であった大隈重信は、対立する伊藤博文一派から早稲田が目を付けられることを慮ってのことでした。

 

明治14年は西暦1881年です。早稲田大学設立はその翌年1882年です。

 

大隈重信不在の開校式では、校長大隈英麿が「開校の詞」を朗読し、大隈重信の盟友小野梓が演説、高らかに「学問の独立」を宣言したのでした。

 

そしてその後祝辞を述べたのが福沢諭吉です。

 

大隈重信は初代総長であり、初代校長は大隈英麿です。大隈重信の一人娘熊子の旦那さんです。

 

参考情報ですが、大隈重信は早稲田大学の初代総長ですが、実際に総長の座についたのは1907年であり、大学設立からなんと25年後です。創立25周年にあたる1907年の春、早稲田大学はそれまでの校長職を廃止し、新たに総長と大学運営の実務上のトップである学長職を設けました。

 

ここに初代総長大隈重信が誕生します。

 

と同時に政界を引退します(後に復帰しますが)。

 

さてその後も交友を深めた二人の間には数々のエピソードがあります。

お互いお金がピンチのときの助け合いの話。

後の総理大臣犬養毅と二人の関係など。

 

多数のエピソードの中から二人の関係性を示す感動的なものを1つ。

 

福沢諭吉は、1901年(明治34年)に69歳で亡くなりました。

 

葬儀には数万人もの会葬者が訪れましたが、平素から質素を旨としていた本人の意向を汲み取り「花や香典は一切辞退」と書かれた掲示が張り出されていました。実際に掲示の通り、福沢家の受付は花や香典の類いをことごとくお断りしていました。

 

このとき大隈家から福沢家に切花が届けられます。供物は一切受け取れないという福沢家の受付に対し大隈家の使者はこう言います。

 

「それは十分承知しているが、これは主人(大隈重信)が自らが手塩にかけて育てた温室の花を、涙ながらに自ら切りとって作った花束です。主人が不自由な体でつくった花束であり是非とも葬儀に供えてほしい」

 

福沢家の受付は、その思いを汲み取って送られた花束を受け取り、福沢諭吉の霊前に供えました。

 

「主人が不自由な体で」とあるのは、大隈重信は1889年爆弾テロに遭い、手術で一命はとりとめたものの右足を失う大けがを負っていたのでした。

 

早慶戦はいつから始まった?

 

早稲田と慶應と言えばあらゆるジャンルで覇を競い合うライバルです。

 

スポーツでもあらゆる競技において「早慶戦」が繰り広げられておりますが、両校の創始者である福沢諭吉と大隈重信は実はこんなに仲良しだったのです。

 

最後にもう1つ。

 

幕末、福沢諭吉は勝海舟と咸臨丸で徳川幕府の使節団として渡米します。そこでベースボールに出会いました。後に福沢諭吉はベースボールの話を大隈重信に話し、いずれ早稲田と慶應で試合をしようということになりました。2人の念願であった初の早稲田と慶應のベースボールの試合は1903年(明治36年)に行われます。

 

この時既に福沢諭吉は亡くなっていましたが、この試合で始球式をつとめたのが大隈重信でした。

 

これが早慶戦の始まりです。

 

では✋